レビュー 「チームラボ ボタニカルガーデン」大阪市長居植物園

先日、大阪市長居植物園に昨夏から常設展示されている「チームラボ ボタニカルガーデン」を鑑賞してきました。

 

https://www.teamlab.art/jp/e/botanicalgarden/?utm_source=google&utm_medium=paidsearch&utm_campaign=teamLabBotanical&gclid=CjwKCAiAxP2eBhBiEiwA5puhNRiR1PdTIAO_F0aO3-C10gEUjj7f1DfA-lYjvkDtaCSGfq8TATzgohoC108QAvD_BwE

 

これは、植物に映像を投影したり、木々の間に発光するオブジェを設置したりして、園内にデジタルテクノロジーを活用したアート空間を作り出す、というもの。手がけられている「チームラボ」さんは、このようなデジタルアートコンテンツで高い評価を得ていて、ドバイやシンガポールなど、世界中で作品展開をされています。

オープンして半年ほどは経っているのに、この日も18時の開場からかなりの盛況。入場は多少列になりますが、入ってしまうと中には決まったルートはなく、自由に見て回ることができます。

圧巻だったのが、1mほどの発光する卵形体のオブジェがおびただしい数並べられているツバキ園。私の世代だと、映画「エイリアン」の冒頭シーンを思い起こしてしまいます。(妻は手塚治虫のマンガ「ブルンガ1世」を思い出すと言ってましたが、それはさすがに古すぎるでしょうか。)というと不気味な印象になってしまいますが、この世ではないような幻想的な美しさでした! 静かなBGMと、刻々と色を変えるオブジェ。周りにはツバキの赤い花が咲き乱れていますが、この花の色も、ライトの色によっては青く見えるタイミングもあり、いつまで居ても見飽きない光景でした。

園内にはお子さん連れも多く、「アート」という言葉に取っつきにくいイメージを持っている人でも、気負わず楽しめる良い展示でした。

 

さて、この「アート(芸術)」という分野は、実は大学入試評論ではよく扱われる分野です。そして、高校生はもれなくこの「芸術論」という分野が苦手です。日本では美術館の特別展は結構高額で、ほとんどの高校生にとってアートは身近なものではないのだから当然と言えますね。なぜ「アート(芸術)」が入試頻出分野かというと、芸術のあり方の変遷は、社会構造の変遷をよく反映しているからです。

入試評論に関する背景知識で、もっとも重要なのが「近代化」の概念です。これについてはまた改めて記事を書きますが、今は人類史に「古代→中世→近代→現代」という変遷があり、現代社会の基盤も課題も「近代」という時代にその種がまかれているのだ、ということだけ理解していてください。入試評論では、現代的問題を論じる上で、その原因を作った「近代」という時代を取り上げることが非常に多いのです。

では「芸術」は「近代」という時代とどのように関わるのでしょうか?

答えはこうです。「いま在る〈芸術〉という概念そのものが近代に作られたものである」

芸術には様々なジャンルがありますが、そのどれも、おおよそ次のような変遷をたどっています。

 

⑴【~中世】絶対的権力者(神・王)のためのもの

⑵【近代】芸術家本人のためのもの

⑶【現代】鑑賞者のためのもの

 

 

⑴まず、近代以前の時代には、今の意味での「芸術」という概念がありません。「art」という言葉は本来、「技術」という意味です。芸術とはそれ自体「食う」に直結するものではないので、芸術作品を生み出す人間は必ず庇護者を必要とします。それが「神(教会)」であり、「王」です。昔の絵や彫刻には、貴族の肖像や、聖書の挿話や神話をモチーフにしたものが多いですよね。芸術は、権力者の庇護を受ける代わりに彼らの威信を高める役割を果たしていたのです。

⑵ところが、近代化によって社会には絶対的権力者がいなくなります。その代わり、芸術はそれまで芸術を楽しむ環境を持っていなかった庶民に対して開かれていきます。同時に、人間は自分らしい人生を大切にしてよい、という個人主義が広まりました。その結果、芸術作品とは芸術家の自己表現である、という一般的な芸術のイメージが作られました。よく小学校の国語のテストで「作者の気持ちを答えなさい」なんて無茶な問題が出されますが、「作者の気持ちがわかること=作品を正しく理解すること」という図式がこの時代に出来上がってしまった名残ですね。

⑶でも、現代の社会では、作品を鑑賞する側にも、その思いを表現する環境やツールが整っていて、同じ作品に触れても感想はさまざま、心を揺さぶられるところもさまざま、ということがわかってきました。「正しい理解というものはない」、「作品の価値は見る人それぞれが決めればいい」。これが現代の共通理解になっています。(このような議論を「読者論」といいます。)

 

どのようなものが芸術とされるか、どのような芸術が求められるか、という点も、時代を映してどんどん変化していきます。その意味で、「デジタルアート」という分野は今後評論の世界でも存在感を高めていくのではないかと思います。

 

少し前までは、「デジタルアート」には否定的な評価も数多くありました。その根拠の最たるものは、「作品の中に作り手独自の感性が存在していない」というものです。デジタルアートはコンピューターによる自動作業を伴うものなので、作り手の魂のこもった自己表現とは言いがたい!ということですね。

しかし、これはある意味「近代的芸術観」に縛られた評価だとも言えます。

 

アートは誰のためのものか。先ほど見たように、これは時代とともに変化します。少なくとも、「評論家のためのもの」であって良いはずはありません。

 

冒頭の話題に戻りますが、「チームラボ ボタニカルガーデン」鑑賞は率直にとても楽しい体験でした。自分より丈の高いオブジェに抱きつく子ども、視界をふさぐほど大きなオブジェの影に隠れてふざけるカップル、小難しいアート論なんかを戦わせている若者もいました。最近では、「プロジェクションマッピング」といわれるCG投影技術も広まっていますが、「ボタニカルガーデン」が単なるプロジェクションマッピングと一線を画するのは、展示品の中に紛れ、触れ、他者と共有することで、視覚体験にとどまらない全身感覚的体験を得られるところです。

感性を刺激される創作物の、鑑賞者ではなく体験者となること。これは実はあらゆる芸術の根幹にあるものです。芸術とは本来「体験」ですが、近代という時代は美術館という画一的空間の中に作品を閉じ込めることにより、その「体験」性を奪ってしまいました。その結果、「アートを身近に感じられない現代人」が生まれているのなら、「アートを日常に呼び戻す」役割を果たす可能性のあるデジタル技術を、締め出している場合ではないのかもしれません。

もちろん美術館でのアート鑑賞も素晴らしいものです。美術館とは、静謐な環境で作品との対話を楽しむもの。作品を通して深い内省に沈むことを楽しむものです。そのような場では、他の観客の存在は時としてノイズになります。しかし、「ボタニカルガーデン」鑑賞は、他の来園者たちの楽しそうな様子を含めて、「良い体験」として私の記憶に残っています。

与謝野晶子のよく知られた歌に、

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」

というものがありますが、美しいものを共有したことで他者に親愛を覚える、という心境はかくなるものかと思わされた一夜でした。

電車でのアクセスも良く、駐車場もわりと空いていました。興味を持たれた方は、大阪にお越しの折があれば足を運んでみてください。東京の「チームラボ プラネッツ」も行ってみたい!

 

デジタル技術がアートに及ぼす影響として、流行の「お絵かきAI」の話題なども取り上げようと思ったのですが、長文になりましたので、こちらについてはまた別の機会に。